東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が辞意を表明しました。
森喜朗さんの後任は「川淵三郎」さんが有力視されているようです。
川淵三郎さんとは、一体どんな人なのでしょう?
今回は、「川淵三郎の経歴&評判は?性格は独裁的でバスケとサッカーのプロ化に貢献」と題して、川淵三郎さんの経歴を調べてみました。
川淵三郎のプロフィール!年齢は?
- 名前:川淵三郎(かわぶち さぶろう)
- 生年月日:1963年12月3日
- 年齢:84歳(2021年2月現在)
- 出身地:大阪府高石市
- 出身高校:大阪府立三国丘高等学校
- 最終学歴:早稲田大学第二商学部商学科卒業
川淵三郎さんは、1963年に父・川淵眞一さん、母・淑子さんの3男として誕生しました。
中学までは野球をしていましたが、高校1年生の頃に友達から「サッカー部に入部したら四国に行ける」と誘われ、当時船で四国へ行けるのはすごいことだったので、川淵三郎さんはサッカー部に入部したそうです。
「サッカー部が大阪大会で優勝して、四国の高松で開かれる西日本大会に出場することになったんです。で、友達に『サッカー部に入ったら四国に行けるぞ』と言われてね。戦後10年も経っていない頃で、船で四国に行けるのはすごいことだったから、四国行きたさで入部したんです(笑)」
動機は不純だったが、持ち前の足の速さとカンの良さでメキメキ上達。引用:https://www.city.sakai.lg.jp/smph/shisei/koho/citypromo/sakai_wo_omoeba/kawabuchi_saburo01.html
それから川淵三郎さんはサッカーの魅力にとりつかれ、ずっとサッカーの練習をし続けます。
早稲田大学入学もサッカーの縁
大学へ入学できず、2浪していた川淵三郎さん。
そんな川淵三郎さんのプレーを見ていた早稲田大学のOB「川本泰三」さん(後の日本代表の監督)が、「これは早稲田に行かせて活躍させてた方がいい」と言って、川淵三郎さんを早稲田大学に入学するきっかけを作ってくれたそうです。
晴れて早稲田大学に入学した川淵三郎さんは、「早稲田大学ア式蹴球部」に入部。
早稲田大学ア式蹴球部は、その年、関東大学リーグで優勝を飾っています。
川淵三郎の経歴:東京五輪出場・Jリーグを発足
▲自撮りを練習する84歳の川淵三郎さん
Twitterを使いこなしています
川淵三郎さんは早稲田大学在学中の1958年に、サッカー日本代表に選ばれました。
- 1959年 ローマ五輪 アジア予選出場
- 1960年 第7回チリW杯アジア予選出場
川淵三郎さんは、着々とサッカーで活躍の場を広げていきます。
1961年に早稲田大学第二商学部商学科卒業後、川淵三郎さんは、古河電気工業に入社しました。
古河電気工業は当時、サッカーが一番強かったそうです。
1964年 東京オリンピック出場
1964年東京オリンピックに川淵三郎さんは、サッカー日本代表として出場しています。
日本は優勝候補のアルゼンチンと対戦でした。
当時、日本は1次リーグ突破は難しいと言われていましたが、3-2の逆転勝ちをしました。
川淵三郎さんは、1点得点をあげ、日本の勝利に貢献しました。
東京オリンピックに出場するため、川淵三郎さんは年間1000時間も練習したそうです。
東京オリンピックに出たいと思っていた8年間は、年間1,000時間ほどの練習をしました。
大切なことはアルゼンチンに1点入れたことではなく 8,000時間練習した、そのプロセスこそが今の人生に役立っているのです。
引用:https://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/topathleteinterview/kawabuchisaburo.html?mode=pc
どのアスリートもそうですが、川淵三郎さんも東京五輪に並々ならぬ想いを抱いていたんですね。
1991年 Jリーグ設立に成功
川淵三郎さんは、東京五輪に出場後、1970年にサッカーの現役を引退します。
その後、1980年にロス五輪の強化部長や、日本代表監督代行に就任するなど、引退後もサッカーに携わります。
そして、もともと日本にあったサッカーのアマチュアリーグ「JSL」を、プロチームによるスペシャルリーグにするという偉業を達成します。
今の「Jリーグ」の始まりですね。
▲Jリーグの開会宣言をする川淵三郎
川淵三郎さんが、サッカーのプロ化「Jリーグ」にこだわったのは、「地域に根ざしたクラブ作りの実現」がしたかったからだそうです。
というのも、川淵三郎さんがサッカー日本代表としてドイツに練習しに行った時に、ドイツのサッカー環境に衝撃を受けたんだとか。
初めて見るサッカーの技術フィルム。
10歳たらずの子どもが大人に混じってサッカーをする光景。
これまで見たことのなかった身体障害者のスポーツ。
毎日が新鮮で、衝撃の連続だった。
川淵は青春時代に本物の「地域に根ざしたスポーツクラブ」を体験し、その素晴らしさを知った。引用:http://www.waseda-afc.jp/tradition/vol-3-story
日本のサッカーが世界に通用するような強さを身に着けるには、サッカーリーグのプロ化が欠かせないと思っていたんですね。
川淵三郎はBリーグ発足で手腕を発揮
川淵三郎さんは、バスケットのBリーグ設立にも尽力しています。
サッカーのJリーグと違って、バスケットのBリーグ設立は、一筋縄ではいきませんでした。
当時の男子バスケットボールは、20年もの間、とても悲惨な状態でした。
- 「企業チーム」・「プロチーム」の2つのリーグが存在し、対立
- FIBA(国際バスケットボール連盟)から、統合するように言われていた
- それでも統合が出来ずにいた
- FIBAは全ての国際試合の出場を無期限で禁じる処分
国際試合の出場を禁じられてしまっては、世界選手権やオリンピックに出場できないということです。
2015年1月、川淵三郎さんはバスケットボールの体制改革のためのタスクフォースのチェアマンに就任します。
川淵三郎さんは、20年以上こじれいていたバスケットボール界をたった5ヶ月で見事にまとめ、バスケットボールのプロリーグ「Bリーグ」の設立に成功したのです。
川淵三郎の現在の経歴は?
川淵三郎さんは、現在「一般社団法人 日本トップリーグ連携機構」の代表理事会長を務めています。
Jリーグ、Bリーグ、なでしこ、Vリーグ、女子バスケ、ハンド、ラグビー、アイスホッケー、ホッケー、女子ソフト、フットサル、アメフトの9競技12のトップリーグや協会の改革に取り組む、競技の垣根を超えた組織。
また、東京オリンピック選手村の村長も務めています。
川淵三郎の評判は独裁者!?
川淵三郎さんは、スポーツ界において数々の偉業を成し遂げてきましたが、その強引なやり方に「独裁的」と言われてしまうことがあるそうです。
しかし、川淵三郎さん自身、自分の「独裁」ぶりを認めているそうです。
川淵氏は自身の“独裁”ぶりも、目立ちたがり屋である点もパーソナリティとして認めている。
有名な“キャプテン”という呼び名も、メディアに対して自ら呼ぶようにお願いして出来た呼び名。
どうすればサッカーの話題がメディアに取り上げられるのか?
どう自分をブランディングすればよいのか? という視点を持ち合わせた稀有な存在であることは間違いありません。
引用:オリコンニュース
また、川淵三郎さんは「独裁者」定義として、
「理念があれば、独裁者でもいいと思っている」
と語っています。
私は、私利私欲を捨てて理念があれば独裁者でもいいと思っています。
理念とは「社会に役立つこと」です。
理念があればみんなが幸せになれる。
だから組織には理念が必要なんです。
引用:リクナビNEXT
「みんなを幸せに導くために」独裁者になる。
何かを成し遂げるためには強いリーダーシップが必要ですよね。
「独裁者」と聞くとマイナスなイメージがありますが、
「みんなを幸せに導くために強いリーダーシップを発揮する」川淵三郎さんは「良き独裁者」なのでしょう。
現にネットでは、川淵三郎さんに好意的な意見が多いです。
困った時の川淵頼み。
転ばぬ先の川淵。サッカーをメジャーにし、バスケット界の長年のゴタゴタをガラガラポンにして改革。次は浮き世離れしたおじいちゃんに変わってオリンピックの窮地を救うの。
もう敬意しかない。ただ、川淵さんならばもっと前から見たかった。時間が少なすぎる。
— よしゆき・千葉ジェッツ🏀好き (@YoshiyukiIsoda1) February 11, 2021
川淵さん後任のニュースに対して、また年配男性かとか言ってる人、それはそれで偏見やと思うで。
川淵さんスポーツの領域での取り組みはサッカーでもバスケでも実績がある人だし、個人的にこの人事配置は納得感ある。
— aritaku (@aritaku03) February 11, 2021
川淵三郎さんは、森喜朗さんの後任で東京オリンピック組織委員長の後任になると噂されています。
もし実現したら、しっかりと職務を全うしてくれそうですね。
